こんにちは、HSP&エンパス歴32年目、マインドコンサルタントの関根(@cekineco)です。
日本にはいろんな美学がありますが、その中の1つに「自己犠牲の精神」があると思います。
自己犠牲、たしかに美しいと思います。自分を犠牲にすることでその代わりに誰かが幸せになること、こんなことが実現できているならば、誰もが自己犠牲の精神を持つべきですよね。
ですがこれ、美学だからと何の疑問も持たずに自己犠牲をすることは、もしかすると不幸への第一歩になっているかもしれません。
今回の記事は、「自己犠牲の精神は大切」と思っているけど、なぜか自分は幸せではないと感じている方へのメッセージです。生き方のヒントに、そして人間関係に深みを出していく手助けになれば嬉しいです。
自己犠牲の捉え方は極端ではいけない
まずはこちらのツイートをご覧ください。
自己犠牲はたしかに美しいけど、嫌なのに必死に耐えてやるもんじゃない。
犠牲じゃなく、お互い様だったり大きな愛で包むという捉え方ならありですが。
自己犠牲がマストになると苦しくなって自分の存在に疑問を抱くようになるかもです。
— 関根 浩平|恋愛相談&結婚&マインドコンサル (@cekineco) March 31, 2021
このツイートが今回の結論というか落とし所ではあるんですが、ちょっと抽象的すぎる面もあるのでもう少し具体的に掘り下げていきます。
もしかしたら自分の両親に「自己犠牲の精神を持って接しなさい」と教育されたかもしれません。本に書いてあったかもしれませんし、有名な方がこう話していたかもしれません。
ですが、僕はどうしても「自己犠牲の精神こそが正義」だとは思えません。とはいえ、「自己犠牲はするな」という気持ちも一切ありません。
自己犠牲というのは、他者のために「時間」「労力」「身体」「命」などを捧げることです。多くの人は「時間」「労力」「身体」を自己犠牲していることが多いと思います。
つまり、自己犠牲をしているうちは、自分の目標や目的にフルパワーを注ぐことは難しくなります。
たとえば、「家族の介護のために家を出ることができず、恋愛すらまともにできない」という30代の女性がいたとします。
客観的に見たら、親思いのすごく優しい女性ですし、自分が介護をするんだという強い責任感も感じます。
ですが、「あなたの幸せは?」「あなたの人生は?」と問われたら、迷いなく「これが私の人生です」と言える人はかなり少ないと思うんですね。
本当の気持ちは、お金がないから自分がやるしかないと思ってやっているかもしれませんし、嫌だけど自分の親だから仕方ないと思ってやっているかもしれません。
仮にこう思いながらやっていたとしたら、毎日がとてもしんどいはずです。
こんな女性に対して、「あなたの自己犠牲は素晴らしい。親御さんのためにも、それを頑張って続けてくださいね」と言えますか?
僕はそんな無責任なことは言えません。
物理的なお金の問題であれば、国の制度を頼って1日、2日でも自由になれる時間を作れないかを考えてほしいですし、したいことがあるのなら、小さなステップからスタートできないかを考えてほしいです。
親御さんが「週に1回で良いから1日寄り添っていてほしい」とお願いしているならば、可能な範囲でその願いを実現させることも立派な自己犠牲なのです。
自分のすべてを手放して、誰かのためになることだけが自己犠牲ではないですし、もしそれが美しい自己犠牲なんだとしたら、僕は美しくなくていいから自己犠牲反対派になると思います。
自己犠牲なのか愛情のカタチなのか
ツイートにもありましたが、僕はここがめちゃくちゃ大切なポイントだと思っています。
対義語ではないんですが、自己犠牲と愛情のカタチは対の関係にあるように感じます。
旦那さんを必死に支える奥さんは世間でたくさんいます。旦那さんが仕事でいない間に家事をこなしたり、栄養バランスを考えた食事を作ったり。
人の捉え方によってはこれも自己犠牲ですよね。
ですが、自己犠牲であると知った旦那さんは心から喜べるでしょうか。そこからなにかパートナーシップに役立つものはあるでしょうか。
自分の時間と労力を削いで家事に料理にやっているという事実はそのままに、それが「自己犠牲なのか」「愛情のカタチなのか」で大きく変わってくると思うんですね。
これを自己犠牲だと思っている人はきっと、旦那さんも自己犠牲で働いて家庭にお金を入れていると思います。「毎日本当に支えてくれてる妻に喜んでもらいたい」という気持ちで仕事はできていないはずです。
醜い争いの典型例ですよね。
「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」という愚かな男性と、「自分が家のことをやってるんだから、夫は稼いできて当然」と思っている愚かな女性のバチバチなバトル。
犠牲にすべきじゃないところで犠牲として捉えると、こういう問題にも発展しますし、可愛そうな自分を演じる絶好の言い分にもなります。
自己犠牲という言葉に極端に違和感を感じるわけですが、これがその理由の1つでもあるんですね。
自己犠牲に気を取られて不幸になっている人は、「自己犠牲=可愛そうな自分」で捉えていることが多いんじゃないかと思います。
自分ができることや得意なこと、そして相手への気持ちでそれがたまたま結果的に自分を犠牲にすることになってしまうのは「愛情のカタチ」だと思います。
自己犠牲じゃないから継続できた妻の妊娠
僕の個人的な話で申し訳ないんですが、2020年10月に妻が第一子を出産しました。すべて順調だったわけじゃなく、切迫早産になってしまい8月頃〜出産間近まで自宅にて絶対安静を医師から伝えられました。
産婦人科が徒歩5分程度だったので、自宅で安静にできるならば入院はしなくても大丈夫とのことでした。
自宅で安静ということは、家事、掃除、食事などのすべてを僕が行なうことになります。
これも自己犠牲といえば自己犠牲です。時間も労力もめちゃくちゃ使うわけですから。とはいえ、相手のためだけではなく、2人のためではあるんですけどね。
今思うと、やはりそこそこしんどかったんですよね。
ですが僕は一度もそれを自己犠牲と思ったこともなく、すべて「よし、俺の出番だ!」感覚でした。僕の人生、妻がしんどいときこそ代わりになれるようにエネルギーのペース配分をしているので。笑
普段から全力でいけよ!と思われるかもですが、火事場の馬鹿力てきな潜在能力の覚醒だと思ってもらえると。
普段から妻が僕のためにがんばってくれていること、元気な赤ちゃんを産むために必死になってくれていること、僕の代わりに体力を消耗しながらお腹の中で育ててくれていること、こんなことを考えていたら愛くるしくてたまらなくなります。
もちろん憎たらしいことだってありますが、それが人間味ですし、しかもお互い様ですからね笑
これが自己犠牲として捉えていたら、きっと出産まで続けられなかったと思います。
物は言いようなので、客観的に見たら「いやいや、それも自己犠牲でしょ」となるんですが、重要なのは僕の中での捉え方であって、客観的な見え方はどうでもいいんです。
なんとなーくですが、僕が自己犠牲として捉えてしまったら妻が一番悲しむと思いますし、責任も感じてしまうと思うんですよね。
夫にこんなことさせちゃってる自分はなんて最悪なんだ。。。私、ここにいてもいいのかな?
って。妻は言葉では言わないけどこういう類をちょこちょこ感じるタイプなので、こう感じさせないための僕なりの対処法でもあるんですけどね。
長々と語りましたが、「どう捉えるか」が自分自身の幸せにも、相手の幸せにも繋がると思っています。
自己犠牲だって素晴らしいと思います。ですが、それを愛情のカタチに変えることができたら、もっと素晴らしいことになると思います。
最後に、「愛情のカタチ」ではなく、どうしても「犠牲」というワードに囚われてしまう人へオススメの話をしておきます。
野球でランナーが3塁にいて、1点を入れるために外野フライを打つことを「犠牲フライ」といいます。自分が犠牲(アウト)になることでチームが1点を掴み取ることです。
自分は今チームのためになにをすべきか、調子が悪いながらもチームのために何ができるのか、自分の成績も考えつつ、チームのために自分を犠牲にすることもあります。
もし「犠牲」に囚われているならば、自分の役割を考えてみてください。「今できることは何なのか」を。
そして、恋愛も結婚も仕事も一種のチームです。そのチームが良くなるために自分ができることを考えて、それを行なうこと。もしそれが犠牲なのだとしたら、それは素晴らしい犠牲だと思いますよ。